たっちくんときーちゃん

限界女の限界エッセイ

シンエヴァはみんなが大人になった映画だった

【シン・エヴァンゲリオン ネタバレ】

 

 

 

シンエヴァは、登場人物も、庵野秀明という監督も、みんなが大人になった映画だった。 

私がさんざ唱え続けていたある種のエヴァの欺瞞に、おそらく製作者が相応の年齢を重ねたが故にきれいに答えてくれた、「正解」を指し示してくれた映画だったかもしれない。

 

私が新劇場版エヴァンゲリオンのシリーズを観ていてつくづく感じていたのは「大人が大人でない」ところであった。
大人たちはエヴァに乗る子供たちにはほとんど罪悪感も感じず、ただ己の願望のために彼らを利用したり、取り繕ったりしていた。(自覚があるかどうかは定かではないが)
子供と対をなす「大人」というのが、子供がやってしまったことに対して(叱りつつも)その責任を肩代わりするものだとするなら、少なくともQまでの彼らはそうではなかっただろう。しかも、そんな人がさらに未熟なはずの子供に対して「大人になれ」「成長しろ」と唱えているので、まあまあな地獄である。
少なくとも今まで、碇シンジというアイコンはあくまで「コミュニケーションに臆病な人間」とかの代名詞であり、本当の意味での「子供」ではない、という空気にどことなく支配されていた。すなわち(Qまでの)劇中でのシンジに対する叱責は、「14歳の少年」にむけたものではないので、そこに疑問を持つ人は少なかったように感じる。だが、一人の未熟な少年として碇シンジを観ていた私は、(大人になれとか言ってる)彼らに対して「そーゆーお前はどうなんだよ!」といいたくて仕方なかった。

 しかし、シンエヴァはその欺瞞を解消するかのように、制作側が相応に歳を重ねたが故か、その辺りに変化が見られたように思う。大人と子供がそれぞれの対比として描かれ、シンジの成長物語として見事に落とし込まれていた。

大人たちが子供に対しての罪悪感、また自らの幼さを露呈し、それでも子供を盾にはしようとしない。彼らは彼らなりに自ら前に進もうとする。そして未熟だったシンジもまた、そうやって大人になっていく。

先ほど大人とは「子供がやってしまったことに対して(叱りつつも)その責任を肩代わりするもの」だと書いたが、もう一つ付け加えるとしたら「過去の自分の過ちを認め、精算する」ことだとも言えよう。「成長」の定義にもなるかもしれない。

それは様々な場面で行われていた。シンジにとってのニアサードインパクト、ミサトにとってのシンジと息子、そして碇ゲンドウにとってのシンジだ。

彼らはそれぞれの過去を真っ向から見つめ直し、過ちを自らの中で消化し、そして次に向かうべき方向へ進んでいったのだ。

ようやく大人が大人になってくれた。そこに感動したし、安堵すら覚えた。

 で、結局それでよかったのか?

ホームでゲンドウがシンジを抱きしめるシーンや、ミサトさんがたった一人でリリスに立ち向かうシーンなんかは正直泣いてしまった。まさかエヴァで泣くとは思いもしなかった。

だが、当初の私は同時に引っ掛かりも感じてしまっていた。

シンエヴァは成長の物語としてとてもまとまっている、そう、「まとまりすぎていた」のかもしれない。

今までのエヴァンゲリオンとは、少年漫画にあるような一直線の「成長」を見せない作品だった。1つ進んでは2つ後退し、紆余曲折しながら以前よりはまだマシになってるかも……?くらいのウダウダっぷり。極めて矛盾しているが、私はそんなエヴァに心底辟易しながらも、それこそがエヴァンゲリオンたらしめる要素だとも感じていた。そして、このシンエヴァでは割と直線的に、まるで今まで停滞していた分を取り戻すかのように、登場人物たちが一気に「成長」していった。そして主人公のシンジもまた周りに必要とされ、助けられて立ち上がり、今度こそ自分の意志でエヴァに乗ることを決めた。少年漫画のそれのように、だ。それが果たして「エヴァらしい」と言えるのだろうか。おそらく「今までのエヴァらしさ」という点では、否である。

だが、この作品が庵野監督にとっての成長物語であり、制作当時の彼視点でのエヴァだというなら、他のシリーズと同じくらい「エヴァらしい」ものだったと言えるのではないか。

多分、庵野監督がようやく人間としての生きる希望みたいなものを直に体験できたのだと思う。逆にいうと、今までの監督はどちらかというと生に対して消極的な人間で、自分や世界に希望を持ちたいがどうしてもできない人だったということも理解できる。自分や世界が好きだが同時に大嫌いでもあり、生きるのも死ぬのも辛い。今までそんなじっとりした空気がエヴァを通じてずっとあった。登場人物みんなが大人ではないのもその故だろう。自分の精神的に未熟な部分をどうしても認められなかったのかもしれない。

それがQから8年を経て、様々な人との関わりを通じ、彼らに必要とされたり助けられたりし、人間を愛し、人間から愛されるようになった。そういう視点から見て作られたエヴァは、自ずと希望に満ちた作品になるはずだ。おそらくその結果としての、シンエヴァなのだろう。

 そう考えると、なるほどこの作品はみんなが「大人」になった作品でもあった。いい意味でも悪い意味でも丸くなり、大団円に落ち着いた。

まあ、ミサトさん妊娠中に飲酒してたの?とか、男は働き女は家を守るってあまりに保守的な家族観だなとか、結局エヴァなくしてシンジくんが認められることはなかったなとか、大なり小なりツッコミどころやちょっとなあと感じるところはあれど、あれは庵野さんの限界なんだろうなとも感じる。それはそれとして、シンエヴァは今までの落とし前をつけ、区切りとして相応しい作品だったのではないだろうか。

あれは庵野による庵野のための庵野救済の物語だったのかもしれない。

 

 

マウントばっかとってきた友人をブロックした話

ある友人との縁を切った。

高校時代からの付き合いで、私の最も古い友人の一人だったが、引っ越し等々の区切りもいいので縁を切ることにした。

今までの彼女との付き合いでは色々あった、と思う。


とにかく、彼女は周囲に対しての嫉妬心が強かった。


当時の私から見て、学生時代の彼女は輝いていた。
大学も難関とされる国公立大に現役で進学したし、キャンパス内での華々しい活躍もよく耳にしていた。

対する私は一浪して私立のそこそこ大に進んだのだが、国公立コンプレックスやその他諸々により、その頃のバイタリティあふれる彼女にある種の憧れみたいなものも感じていた。
(ただ、彼女のキラキラした学生生活に対して既に拒否反応を持つ人たちも一定数いたみたいで、その当時からちらほらと彼女から距離を取っていく人を見かけていたのも事実だった)

しかし私が大学3年の頃からだろうか、私も徐々に彼女の「違和感」に気づき始めた。

というか、彼女の嫉妬心の矛先がおかしくなってきていた。

今まで彼女の嫉妬心は学業に向いていたのだが、彼氏を作ってからは、いかに今の彼氏が素晴らしく幸せかをSNSでアピールすることが目立つようになっていった。
(だが、実際は結構ややこしい関係で、本人からよく相談を受けていた)

加えて彼女はスピリチュアルにも傾倒していたので、私のことを占っては私の「本質」みたいなものを説いたりしていた(なお、私は女王様気質らしい)。
また、そこから導き出された彼女自身の本質は「純粋無垢」なものらしく、そうであることをSNS上でよく呟いていた。
また、「私ってよく○○って言われるんだ〜そんなことないのに〜😂」と友人からの評価も嬉しそうに載せていた。

ちょうど同じ頃に「私、他人が幸せそうなの見るとすごくムカつくの」とポロッと呟いていたのも聞いた。

その頃から私はなんとなく彼女との距離を置くようになり、私から連絡することはほとんどなくなった。



彼女は大学卒業後、一世紀以上も続く歴史ある企業に勤め、いつもSNS上でそのことについて自慢げに語っていた。
だがその実、上司がかなりのヤバい人間だったらしく、彼女からかかってくる電話越しに上司の愚痴を延々と聞かされたものだった。
彼女はいつもフリーランスになりたいと言っていた。辞めてフリーになればいいじゃんと伝えても、なかなか踏ん切りがつかなそうだった。

SNS上では、歴史ある企業に勤めていること、自分が会社の手腕ともいえる立場になっていること、正社員であることetc……といった今の境遇についての自慢が目に見えて多くなっていった。


そして、その頃から、私が彼女に対して感じていた「モヤモヤ」としか形容しようがなかったものが、決定的な違和感として残るようになる。



「この人、口では色々言ってるけど結局何もやっていないのでは……!?」



いや、確かに「やって」はいるのだ。
ただ、「会社勤めとか時代遅れ!フリーランスになって自分がやりたいことをやる!」と賢しらに語る一方で、企業に正社員として勤めていることをSNSで自慢し、たまに知り合いから頼まれたアクセサリーなどをちょこっと作っては、また自分の遠大なビジョンを語る……というのが彼女の「やっている」ことなのだ。

要するに、彼女は理想と現実のギャップが大きく開いていることに気づいていない、いや気づこうとしていないのだ。
そしてそれまでに大きく膨れ上がった承認欲求を持て余してしまっている。


ところで私はというと、5年かけて大学を卒業してほんの数カ月だけの企業経験を積んだあと、今現在はフリーランス(という体のいい半ニート)である。
しかし色々やってるうちにちょっとずつやりがいのある仕事も任されるようになってきて、最近、ご縁あってひとつの大きなチャンスに恵まれた。
基本的に私はSNS上ではそういう自慢はしないのだが、さすがに飛び上がるほど嬉しい出来事だったのでSNSで自慢してしまった。
たくさんの友人から祝福されたが、彼女からのメッセージはひとつもなかった。


私は都内の大学入学後ずっと一人暮らしをしていた。
しかし、無事に卒業もしたし在宅ワークだし一人暮らしする必要もないだろうということで、地方の実家へ戻ることになった。
そして詳しい経緯は説明せずに、引っ越す旨だけをSNS上でちらっと呟いたところ(ここ数カ月会話がなかったにも関わらず)彼女から音速でDMが来た。
恐らく彼女の中では「挫折して実家に戻らざるを得なくなった人間」というストーリーが浮かんだからなのだろう。

彼女は私の不幸ごとには同情を装って最速で連絡をよこす人間だ。

彼女の思惑は長い付き合いの中でなんとなく察することができた。


彼女は挨拶もそこそこに、私になにかしら不幸ごとがないかとソワソワしているように伺えた。
なので、彼女にはまだ伝えてなかった、私が今フリーランスで仕事をしていること、こちらの方が企業に勤めるよりも断然自分に合っていることを(今までのちょっとした陰湿な仕返しのつもりで)伝えた。


そうすると彼女からの返信はこうだった。

「あなたは集団生活向いてないもんね」
「嫌と思ったことへの我慢強さがないっていうか」
「もちろんいい事だけどね!」
「褒めてるつもりだよ!」


........。


……………………。



🙂




「さらっと酷すぎワロタ」とだけ伝えた。
「褒めてるつもりなの!ごめんね💦わたしもフリーランスになりたーい」という向こうに対して、
「コロナバンザーイ」という支離滅裂な返答だけして、会話を終えた。

その後彼女による最新の呟きが更新されていたので見てみると、
「ようやく今やってるプロジェクトに目処がついた!歴史ある企業での仕事は荷重だ!これから長い間語り継がれる仕事はやっぱ大変😭」とのことだった。

私は数人の友人に彼女との経緯と、DM間での会話について話したところ、満場一致で「縁を切ってしかるべし」との意見だったので、それに後押しされるかたちで彼女のSNSをブロックした。



結局、彼女は今日まで「誰かにすごいと思われたいだけの人間」でしかなかった。
思うに、理想と現実の間に大きな乖離を生んでしまったのは、何にせよ彼女の自己対話が少なすぎるせいだだったのでは?と感じる。

SNSは何者でもない自分が「何者」かになれる最もローコストなツールだし、外部に自分とは何かを定義してもらう心地よさは、占いや肩書にも潜んでいる。

誰かに、どこかに、ましてや占いの結果に自分とは何かという答えを委ねても自分自身について本当に理解することはできない。

しかし彼女は、外部から導き出された、プラスチックのような一面的で誤った自己像を内に抱え込んでしまっている。

そして本来の彼女自身の、多面的でいびつな内面を認めようとはせず、どんどん自己認識と実際の自分の間に乖離が生まれてしまっているんじゃないだろうか。


もしかしたら彼女は今後、本当に「すごいこと」を成し遂げるのかもしれない。
だが外部に頼らずに自分自身に向き合い、何者でもない自分を認めない限り、どんなことをやり遂げても彼女の思う幸せにはたどり着けないんじゃないかなと感じる。

そして私に言い放った「褒め言葉」も、恐らく占いかなにかの一部を受け売りにしたものだったのだろう。

一面的で薄っぺらい自己認識でしかいられないような人間は、他人にもそれを臆面なく向ける。
この期に及んで「私の本質」を彼女に定義されたことが、今まで絶妙なバランスを保っていた私達の関係を崩す大きなきっかけとなったのは言うまでもない。

……まあ、もうブロックしたし知ったこっちゃないので、彼女がどういう原因でああなってしまったのかを分析するため、
そして自分の気持ちを整理するためにも書きました。あとヤベー人間が周りにいたことを吹聴するため。

クソ長くてごめんなさい。

ここまでパッションを持ってこれだけ長い文章を書けたのは本当に久しぶりなので、怒りのエネルギーってすげえなと思いました。

多分私の創作意欲の源はここにありそう。

読んでくれてありがとうございました。

寝ます。